UNIVERSITY OF TOKYO HOCKEY TEAM
東京大学運動会ホッケー部
Est. 1925
2021-10-18
現在の自分
西畑 樹希
最近の生活はひどく単調なものになったと思う。
部活をしてゼミの準備や部の仕事をしてバイトをして大抵1日が終わる。オフの日ですら睡眠時間が伸びるにすぎない。来年のことを考えながらプログラミング始めなきゃなとか、あの本を読んでおきたいなと思いながら結局時間的に余裕がないから、まあ引退してからでいいやと思い、この単調な生活に甘んじている。
これだけ読んだ人からは機械的な生活だの、生きてて何が楽しいんだと思われそうだが自分の心情的には大学4年間の中で最も平穏で、でも幾ばくかの充足感は得られるような生活だと思っている。
自分の大学生活は焦燥感と常にともにあった。部活の方では言わずもがな(部の雑感だけど)学科においてもひどく憔悴していた。学科の特性上、大学生活を数学に費やしている人が多いし、自分の成績は明らかに下の方だし、ゼミでは教授に突っ込まれまくるしでまあそりゃ焦るでしょみたいな感じだった。
特に4年の前期なんて、まあひどい心境だったと思う。部活では試合のメンバーに入るからには最低限の実力をつけなきゃと思っていたし、学科では院試に向けて数学を一から勉強してきたしで、極度のストレスでオフの日は頭痛で1日行動不能なんて日もざらにあった。(真に驚くべきことだが院試が終わってからは頭痛の症状は完全になくなった。)
諸々の結果を知っている諸君は色々失敗しているなと思うだろうが、自分としては特段深い後悔はしてないし(もちろんある程度の後悔はある)、自分の将来に対しても、どちらかというと希望を持っていて楽しみにしている。(少なくとも自分の進学先はbestな環境が整っていると思っています。)
だけど完全に失ってしまったなって思うものが一つある。自尊心だ。
上で書いたような生活をしていればそんなものは嫌でもなくなる。失って初めてきづくとは言ったものだが、無くても生活できるんだなと思う一方、プレーには影響しているんだろうなと思う。この部活の人間にとっては無縁ではない問題だとは思うので、まあ思う所ぐらいは書いておこうと思う。
とあるイデオロギーの塊である辞典には「self-esteem 誤った評価」とある。
ここまでひねくれればそれはそれでいいんだろう?が人間そうはいかない。しかし、ある程度は自分的には的を射た表現だと思う。結局、自尊心なんて自分に自信を持てるか否かにすぎないからだ。自信を保つためには自分で自分は”できる”と評価することが重要だと思うがこの評価がいくら客観的な体をしていても主観にすぎないと思う。主観的に自分が満足するプレーができたか、自分の中の主観的なある基準を超えたプレーができたか、これが重要だからだ。理想を高く持つことも大事だが、この点において自分を自分で褒めなければならないと思う。その点において自分は絶望的に終わっていた。4年生になってからのいつぞやの面談で自分の得意なプレーや技、長所みたいな項目に自分は悩みに悩んだ(正しくはひねり出そうとした)挙句、思いつかなくて「なし」と書いて石川と成田を困惑させ、色々とフォローされたのを覚えている。院試の面接で「長所は?」と聞かれゼミの準備を数十時間かけて準備しますという当たり前のことを答えた挙句、「他には?」と聞かれ、「ないです」と答えてしまったのを覚えている。少なくとも後輩はこんな自分を反面教師にして欲しい。お互いにいい所を褒めあって、自分の良さを認識していって欲しいと思う。主観と客観はずれるものだが、語弊を恐れず言えば自分の主観的な評価は調節していって欲しい。
(ちなみに辞典によれば「自惚れ こちらが嫌っている奴に見られる自尊心」だそうです笑)
話は変わるが引退まで残り2ヶ月を切ったいま、後輩に残せるものは残していきたいと思っている。それは自分のプレーだけではなくて事務の面でもだ。磯田さんや歩さんの「運営が強い部活は強い」(昨年度会報参照)という言葉が心に残っている。幾ばくかの怠慢は重ねたが会計やOB事務を務めたものとして来年以降の運営が快適になるよう善処して生きたい。
最後にいまの自分に例の辞典から、この言葉を引用して締めたいと思います。
Past
「永遠」の一部分でありはするものの、我々はそのまたごくわずかな部分を知っているにすぎず、しかも知っていることを後悔せざるを得ない。「過去」は「現在」と呼ばれる絶えず動いてやまぬ一つの線によって、「未来」という名で知られている想像上の一時期と区分されている。「過去」と「未来」は、「永遠」の二大区分であるが、その性質は完全に異なっていて、前者は悲しみと失望とで暗く、後者は繁栄と喜びとで明るい。「過去」は咽び泣きの領域であり、「未来」は歌声の世界である。前者にあっては、「記憶」が「粗布をまとい、灰をかぶって」うずくまりながら、悔悟の祈りを呟き、後者にあっては、「希望」が日の照り輝く中を思うがままに飛び廻り、成功の殿堂と安楽のあずまやへと我々を差し招く。にもかかわらず、「過去」は昨日の「未来」であり、「未来」は明日の「過去」なのであって、結局、両者は同一のもの-知識と夢であるに他ならない。