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2019-10-20

僕のホッケー人生

和田 拓也

ホッケーとの出会いは高校1年生の秋だった。部活にも入らずフラフラしていたところを「先輩が引退して人数が足りないからやらないか」と友人に声をかけられた。特にやることもなかったので参加してみると、楽しかったし何より先輩や同期が快く受け入れてくれたのが嬉しかった。コーチもおらず、またサッカー部、野球部と土のグラウンドを分け合い、迫害(?)されながら、自分の技術的な成長は今に比べるととても遅いペースであったが、とにかく楽しかった。入りたての大会でいきなりFWで使われて、こぼれ球を押し込んでゴールを決めたのは今でも覚えている。守ることが比較的好きだったのでDFに転向したが、ビルドアップの概念も、サッカーのやり方を応用しようという考えもなく戦術的には全く整備されていなかった。2回勝てばインターハイに行ける状況だったからこそ、もう少し考えるべきだったと後悔している。

引退してからは、なんとなくだがホッケーを続けようと思ってホッケー部のある大学に行こうと勉強をした。高望みもあって1年目は失敗したが、もう1年かけて東大に入ることができた。支援してくれた家族には感謝しています。

東大に来てホッケー部の練習を見たとき、衝撃を受けた。学内に人工芝のグラウンドがあるのだ。そこでホッケーをする先輩方の姿を見て、今まで自分がやってきたスポーツと同じだとは思えないほどだった。上述のように不完全燃焼の気持ちがあったので、ここでホッケーしたい、もっと上手くなりたいと思いその場で入部を決めた。
練習が始まると、砂から芝生という環境の変化に苦労することになった。レシーブ1つとっても、乱れて足に当たらないように足を抜いてしまったり、跳ねた時に備えて過度にスティックを立てたり。砂の上で染み付いた癖が消えなかった。体力にも自信がある方ではなかったので、入って早々に挫折しそうになった。そんな中で学年でキーパーを出すかという話が出て、いっそ新しいことを始めてもいいかという気持ちで立候補した。自分のリーチの大きさを活かせるのではないかという希望も込めて。

キーパーになってはみたものの、しばらくは、といっても1年弱は何もできなかった。わからないことがわからない。なのに他人にはかなり言われる。プレー中だから語気が強いものが多くてなおさら堪えた。一番辛い時期だったかもしれない。ただその中でも成長はしていたようで、気がつけば足出しができるようになっていた。ただこの時の感覚をあまり覚えていないので、後輩たちに技術的なアドバイスはうまいことできていない(ごめんな橋本)。

学年が上がるにつれてホッケーの理解も進み、試合でボールに触る機会も増えてホッケーを楽しいと感じるようになってきた。公式戦出場というニンジンをぶら下げられた3年時代は一生懸命練習した。調子も良かったが、それでもレギュラーにはなれなかった。試合の結果では差がなかったと思っているだけに悔しかった。GKというポジションは評価が難しいこともわかるが、だからこそ他の選手との信頼関係が大事なのだということも教えられた。

4年になってからは、自分がレギュラーとして出ることに初めはかなり重圧を感じていたが、春にある程度(結果というにはおこがましいが)自分が1部でもある程度やれることに自信を掴んだ。しかし秋はまた厳しい結果を突きつけられている。後輩の指導ばかりして自分の限界を高めることを怠ったツケかもしれない。

最後に悲観する形にはなったが、泣いても笑ってもあと1ヶ月しかない。カレンダーに残りの練習回数も出ているが、そんなことは気にせず突っ走るしかない。自分に後悔を残さないためにも。

試合中は相手の早い展開に半ば翻弄されながらも声を出し続けてシュートに備え、自分のプレーには浸る暇もない。得点しそうなときもDFにカウンターに備えてスペースを管理させる。PC以外で得点シーンを見ることもなく、点を決めて帰ってくるメンバーにもう1回締めていこうと声をかける。試合が終わればあらゆる感情にまさって試合が終わったという開放感に包まれる。あんまり楽しくないのでは?と最近は感じるようにもなってきたが(笑)、やっぱり最後は勝って終わりたい。

タスキ戦、順位決定戦と続くがまずはインカレ。1回勝って山梨学院にリベンジする。前回のような試合には絶対にしない。俺たちはこんなもんじゃないと見せてやろう。

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