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2019-04-27

ハーケン

崎山 栞里

努力というのは山登りみたいなもので、一部の化物みたいにポジティブな人間を除けば一般的には辛く苦しい時間が長いものだと思う。
体がどんどん重くなって、上を見上げては「まだこんなにあるのか」とため息をついて。時に雨に打たれ、寒さに凍え、下を見ては滑落の恐怖に怯える。
じゃあなんで登るのかと言われたら、(そこに山があるからではなく)頂上からの景色を見たいからじゃないのか。
目一杯伸ばした手の先に気まぐれみたいに触れる成功体験が宝物みたいに輝いて見えるから、人は努力をやめられないんじゃないのか。
山登りに足場となるハーケンが必要なように、努力にも足がかりになる成功体験が必要だというのが私の持論である。

最近、少しずつだけどかつての自分が目指したものに近づけているのが嬉しい。
たとえ中身の伴わない資格だとしても、プレイヤーでない身でC級審判の肩書きを得られたのは誇らしかったし、部内外で分析やってる子として接してもらえるのもありがたいことだと思う。
だがそれ以上に。プレイヤーじゃなくてもグラウンドに立てる。汗と血と涙にまみれてもがくみんなに限りなく近いところで戦える。2年くらい続けてやっと欲しかった力の(米粒くらいの大きさの)破片を得られたことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。

だけど、ここで終わっていいのか。やれること全部やってんのか。

ホッケー部にはプレイヤー・スタッフ問わずかっこいい先輩がたくさんいてすごくお世話になったけれど、それでも私は自分達の代が一番かっこいいと信じて疑わない。
しかし同時に、自分はそのめちゃくちゃかっこいい彼や彼女に並び立てる同期であるのかをずっと自問してきた。
多分今でもまだ追いつけていないから。

大切な人たちに期待されたことが嬉しかった。彼らが求める水準に届かないことが悔しかった。常に前を向けたわけでもなかった。自分には無理なのかと何度も思ったし、理不尽とかまっとうな反論や自身の無力にメンブレすることもある。だけど絶望に限りなく近い時間を気合いと反省で乗り切った先で、ほんの少しでも認めてもらえたことはもっと大きな喜びに繋がった。
全部大事にしたい喜びとか痛みの記憶で、だけどただのお綺麗な思い出にはしたくない。一つ一つをハーケンみたく突き立てては足場にして、どうせならもうひと段階上に行こう。

くっそしょうもないレベルの知識や観察眼でも、今でも後輩にどやされるレベルの技術でも、あんまり器用にこなせない仕事でも、ほかならぬ私が培ったものには違いない。全部合わせたら、1人前くらいにはなりやしないだろうか。
いや、この際何人前でも構うまい。
この大好きなホッケー部の大好きな同期や後輩たちに、何かどでかい恩返しをしたいとずっと思っていた。もう少し具体的に言うなれば、勝ちに関われる貢献を一つでも多く。
試合中の意図せぬファウルがひとつ減るでもいい、1試合に40回あるうち1回のカウンターで繋がるパスがひとつ増えるでもいい。
努力賞なんかいらない。チームを確実にいい方向に変える何かが欲しい。もっとできることはないか。ここで満足していいのか。
考えるうちに存在意義が云々とかどうでもよくなったし、シンプルに闘志が湧いてきた。

楽な道ではなかったけれど、人に恵まれた。
すべての苦い思い出とかいた恥がむしろ、ここに来て最大の武器となった。
もっと早く始めていたら、なんて思うことはしょっちゅうだけど、幸いハーケンは懐にたくさん溜め込んでいるから。
あとは登るだけ。たとえ頂上が見えなくても、ただ上を見ていたい。

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